プロフィール 

新山 高一郎  - NIIYAMA TAKAICHIRO -


【略歴】

東京都江東区生まれ
生年月日 1955年(昭和30年)6月29日
かに座・血液型 O型

【学歴】

1968年(昭和43年)3月 江東区立 砂町小学校卒業
1971年(昭和46年)3月 江東区立 第四砂町中学校卒業
1974年(昭和49年)3月 東京都立 墨田川高等学校卒業
1978年(昭和53年)3月 埼玉大学 経済学部経済学科卒業 (経済学士)
1990年(平成02年)5月 ロックハースト大学(米国ミズーリ州)

経営学修士コース卒業 (経営学修士)

【職歴】

1978年(昭和53年)4月 東京商工会議所入所

その後、産業部、国際部、日本商工会議所カンザスシティ事務所長、国際部国際経済担当課長、証明センター所長、まちづくり担当課長等を経て、現在、証明センター勤務。

【資格】

1973年(昭和48年)10月 日本商工会議所珠算能力検定1級合格
1978年(昭和53年)11月 実用英語検定試験1級合格
1981年(昭和56年)06月 日本商工会議所簿記検定2級合格
1997年(平成09年) 07月 TOEIC 965点取得


【主な所属団体】

幸福の科学 江東支部
幸福実現党党員
幸福実現党 江東後援会
 江東の未来を育てる会


生い立ちから現在まで



出生

1955年(昭和30年)6月29日
鉄工所経営の父・晃一郎とその妻、幸子の長男として東京江東区で生まれる。
健常児として生まれ、保健所から「優良健康児」として表彰される。

1957年8月
海水浴後、当時流行っていた脊髄性小児マヒにかかり、その後遺症が主に右足に残る。

学生時代

江東区立砂町小学校、同第四砂町中学校、都立墨田川高校を経て、埼玉大学経済学部経済学科を卒業。
小学校には、許可を得て自転車で通った。
この頃から、プールで泳ぐのは好きだった。
本を読むのも好きで、小学校6年生の時、夏目漱石の「坊ちゃん」を読んだ記憶が残っている。

中学校では、NHKラジオの「基礎英語」なども聞いて、英語を学んだ。
部活は科学クラブに所属し、なぜかミジンコの研究をしたりした。
高校では、プール好きが昂じて、水泳部に所属して泳いだ。
高校の大会には出場できなかったが、墨田区の区民水泳大会に出場して、2人で泳いで、2位になったことを自慢にしている。


大学には、片道1時間30分ほどかけて通学。
1年生の時に英検2級に合格し、その後、就職時のハンデを克服するために英検1級を目指して英語を勉強した。

埼玉大学の教養学部で米国や英語に関する講座を取り、卒業時には、経済学部とほぼ同量の単位を取得していた。

英検1級は大学卒業後、就職した年の秋に、受験9回目で合格した。英検1級合格までに、一度も外国に行っていないことを誇りに思っている。

本業の経済学部では、高谷ゼミに入り、卒業論文では、「身体障害者福祉法の私的考察」を書いた。

なお、身体障害者福祉法は、現在は、障害者総合支援法に改正されている。
就職する際には、身体障害者であることを証明できる「身体障害者手帳」を取得することが有利だ。

私は自立心が強いためか、この手帳を取得することを潔しとしなかった。この論文をまとめるに際し、身体障害者福祉法を研究すると、障害者の自立を支援するためのものであることが分かり、結局、「身体障害者手帳」を取得した。

就職

就職にあたり、就職した東京商工会議所と他の1社に内定をいただいた。

どちらにするか考えた上で、他の会社より、東京商工会議所の方が他の人と平等に扱っていただけ、また経済、社会の勉強ができると思い、東京商工会議所に就職した。

就職後は、産業部では、税制や金融、そして簿記の勉強を必要になった。また、国際部では得意の英語を活用して仕事ができた。

1987年から3年2ヶ月、日本商工会議所のカンザスシティ事務所長として、米国ミズーリ州カンザスシティに滞在した。この事業は、日本の中小企業が米国に進出する場合の情報提供などの協力、米国企業への日本企業の情報提供、地元の日系企業のコミュニティ活動が主なものだった。

また、この間、夜間と週末を活用して、地元のロックハースト大学の経営学修士(MBA)コースにて、私費にて学び、卒業できたことは大きな自信となっている。

その後、原産地証明書などを発給する証明センター所長、まちづくり担当課長等を経て、現在は証明センターに勤務している。




結婚、子育て

私は、生まれてから現在まで、6年間を除いては、現住所の江東区北砂4丁目に住んでいる。その内、3年間は米国カンザスシティ滞在で、残りの3年間は、1981年から3年間、世田谷区の代田、川崎市の八丁畷、渋谷区の笹塚で一人暮らしをしていた。これは、自分が一人でも暮らせることを証明するためでもあった。
女性との付合いは得意ではなかったが、カンザスシティ駐在から帰国後は真剣に結婚を考え、行動した。

その結果、1991年、ビジネスマンの朝の勉強会を通じて知り合った、看護師の資格を持つ裕恵と結婚した。幸いにも、長男、長女、次男の3人の子宝に恵まれた。

現在(2014年1月)、子供たち3人は、上から、大学2年生、高校2年生、中学3年生と元気に育っているが、親としても奮闘中である。
妻はある大学の看護学部に教員として勤務しており、互いに励ましながら、働いている。
また、実母は同居しており、おかげ様で元気である。

日常生活と両親への感謝

2歳の時にかかった小児マヒで、右足に後遺症が残り、補装具と松葉杖を利用している。しかし、今でも、週1回は地元のスポーツ会館のプールで500メートルほど泳いでいる。また、通勤には自転車を利用し、週末にはオートマチック車も運転している。日常の活動にはほとんど不自由はないと思う。

両親に対しては育ててくれたことに対して感謝している。幸福の科学では、人はある程度人生計画を立てて、両親を選んで生まれてくると教えられており、決して親が勝手に子どもを産んだわけではない。

私の場合、2才で小児マヒにかかって、人に対するやさしさを学ぶ計画だったとするのであれば、私が両親に選んだ現在の両親(父は、1988年に帰天)に対して、申し訳なく、また有難く思って、泣けたことがあった。

父は、新興宗教に入り先祖の悪い因縁を断ち切ろうと修行したし、母は、私が小児マヒにかかった時、一度は泣いたとの話だが、その後は気丈に愛情深く育てていただいた。

私は、父からは神仏に対する信仰心の大切さを学び、母からは努力することの大切さを学ぶことができたと思う。
両親には迷惑をかけたが、この両親のもとに生まれることができて、本当に良かったと思っている。



幸福の科学の出会いと信仰

幸福の科学については、2人の妹から紹介された。特に、『常勝思考』と『黄金の法』には感銘を受けた。

「常勝思考」とは、人が、あの世から生まれ変わってこの世に生まれる目的は魂(心)を磨くことであり、人生で直面する苦難や病気などはそのための砥石であるという考え方。

私はこの教えを知って、今まで、ハンデででしかないと思っていた自分の足の障害にも、心を磨いたり、生活を律したりという積極的な意味があるのだということを初めて知り、それまでより積極的な考え方ができるようになった。

また、『黄金の法』では、人類の歴史に登場した偉人たちの神仏の眼から見た評価があるということが分かり、驚いた。

以前から、世の中の役に立てることがしたいと考えていたが、この教えを人々にお伝えすることで、私のように人生に対する考え方が前向きになり、幸せになれると思い、1994年8月に幸福の科学に入会した。


その他・つれづれ思い出語り

身長164cm、体重54kg、血液型O型。

好物
和食、バナナ、各種スープ。甘党で、洋菓子も和菓子とどちらもいけるが、体重管理のため食べ過ぎに注意している。

家族の誕生日などは、砂町銀座商店街にある洋菓子店『モカドール』のケーキが我が家の定番になっている。最近では、同居の母の誕生日にイチゴのショートケーキを購入して美味しくいただいた。  

水泳
小学校の頃からプールで泳ぐことは好きだった。高校時代には水泳部に入り、夏休みも学校のプールに通った。今でも、週1回は区営のスポーツ会館のプールに行き、1回500メートルは泳いでいる。普通はクロール、背泳ぎで泳ぐが、個人メドレー100メートルも1回は加えている。

2020年の東京オリンピック時に、パラリンピックの方に出られないか考えたこともあったが、私のスピードではとても無理だということが分かった。自分の出場以外のところで、東京オリンピック・パラリンピックを応援する。

映画
映画も結構よく観ている。最近観た映画で心に残ったものは、『ハンナ・アーレント』、『永遠のゼロ』など。江東区内の木場にある『109シネマズ木場』はよく利用しているが、その他のところでも観ている。

2012年に全国ロードショー公開された幸福の科学の映画『ファイナル・ジャッジメント』では、他の方々とともにエキストラで出演した。

料理
けっしてグルメ通ではないが、食べることは好きなため、また、妻が働いていることもあり子どもがいるので、料理はすることが多い。得意料理は、肉じゃがやオムレツなどの家庭料理。最近では、揚げ物もよくやっている。短時間でより美味しいものを作ることを心がけている。

投書
自分の意見を新聞の投書欄に投稿、掲載されることにより、世論形成に寄与しようと思い、数年前から投書を書いている。
最近では、2012年8月に、読売新聞の『気流』欄に、ロンドン・オリンピックの水泳競技を見て感動したことから、2020年は東京からこの感動を世界に発信しようという趣旨のことを書いた投書が掲載された。この投書が、日本のオリンピック招致への機運を高めるために少しは役に立ったのではないかと自負している。


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